他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ ブレイディ みかこ
アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれない。
個人と自由を重んじる教育は自分自身の中から生命の輝きを叩きだす力を与える。
まず自分自身の生をスパークさせる力を子どもに与えなければならない。

「わたしはわたし自身を生きる」と宣言し、「self-governed」のアナーキストとして生きた人が、他者の靴を履くためのエンパシー・スウィッチを自然に入れることができる人でもあったというのは逆説的である。彼女のことを考えると、思いきり利己的であることと、思いきり利他的であることは、実のところ繋がっているのではないかとすら思えてくる。
他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ ブレイディ みかこ
SNSがふだんの生活では信じられないような非人間的な言葉が渦巻く場所になってしまうのは、匿名で書けるからというより、あまりにピュアに「見られることがすべて」の「表舞台」なので、他者を一人の人間として見られなくなり、エンパシーが機能不全になるからではないか。シンパシーの「いいね!」はたくさん押して、押されているのに、エンパシーの荒野になりがちな場所。それがSNSではなかろうか。
エンパシーという力は、常に善を為し、人を助けるために使われるわけではなく、その能力を用いて残虐な行為や他者からの搾取を行う人間もいるのだと彼は言った。これはエンパシーを経済に使おうとする行為にもまさに当てはまる指摘だ。エンパシー・エコノミーというと優しい経済、人道的な経済のような響きがあるが、実際には他者の心を正確に読んでうまく人を操作し、搾取する経済にもなり得るからだ。
自分は自分。他者とは決して混ざらないということである。その上で他者が何を考えているかを想像理解しようとするのだ。脳内の鏡に他者になった自分を映し出すというのではなく、他者との距離を保ちながら自分の靴を脱いで他者の靴を履いてみる。両者の違いは、「要するに『共同性』っていうのもほどほどであればいいんだな」みたいなバランスの問題ではないように思える。おそらくここで重要なのは、「自分を手離さない」ということだ。
伊丹十三による「おじさん」の定義を紹介し、親の価値観や物の考え方に閉じ込められている少年のところに、ある日ふわっとやって来て、親の価値観に風穴を開けてくれる存在、それがおじさんなのだと言っていた。
「親とか社会が教えてくれる正しいことじゃないことをいつも遊びながら教えてくれる人。それがおじさんなんです」
「僕たち(つまり日本社会)には、いま悪いおじさんが必要なんだ」
ニーチェの論では、エンパシーに長けた人々は空疎な「道具」や相手を映すだけの受動的な「鏡」になって自己を喪失する。それだけに、そういう個人が強烈な自我を持つ他者と出くわすと、まるでエンパシーの対象が自己になったかのような感情移入をし、自分を明け渡してしまうことがあるとブライトハウプトは指摘している。究極の「推し」ができる状態だろう。アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。
バンパイア的エンパシー
これは、他者の経験を自分自身の経験であるように感じ過ぎるために、自分と他者の壁がなくなってしまい、不健康なまでに密着した関係になってしまうというものだ。誰かの体験をシェアする機会があまりに長く持続的に存在すると、それが他者の体験であることを忘れ、自分の意志で他者を動かしたくなるという。その例として挙げられているのがヘリコプター・ペアレント(上空から子どもを常に監視し、何かあると降りて来るヘリコプターのように過保護・過干渉な親)だ。そういう親は、子どもを自分の思い通りにしたい支配欲の強い性格であり、本人の人間性の問題だと片付けられがちだった。しかし、ブライトハウプトによれば、ヘリコプター・ベアレントという現象にも、エンパシーという人間の能力が介在しているという。親は長い年月、子どもを育てながら、子どもの成功の喜びや失敗の悲しみを身近で目撃し、分かち合う。そうするうちに、子どもの靴を継続的に履いて嬉しさや悔しさを自分ごとのように感じるようになる。こうやれば失敗しないのではないか、こうやったらうまくいくのではないかと自分のこととして考えるようになってしまうのだ。こうして子どもの成功は親の成功となり、子どもの失敗も親の失敗になってしまうので、親がすべての決断を自分で下し、子どもを従わせようとする。子どもには失敗を経験する権利があることを認めなくなるのだ。これなどは、他者の靴を長いこと継続的に履きすぎて、本来の持ち主に返さなくなっている状態だろう。
アナキズムはネグレクトしない
形式的でただ「知識を身に着ける」ために学ぶ人道主義的教育はもう古く、これからは知識を生活の中で活かせる実用的な学びが必要だという考えから、リアリズム的教育が叫ばれるようになっただが、シュティルナーにとってはどちらにも最重要なものが欠けていた。どちらの主義も同じように「will-lessknowledge(意志のない知識)」を子どもに授けるに過ぎないからだ。一般的な学校教育とは、従属のための教育ではなく、自由のための教育でなければならず、自由になるためのもの、すなわち真の生活を手にするためのものでなくてはならないとシュティルナーは説いた。しかし、実用的な教育ですら、個人と自由を重んじる教育には遠く及ばない。前者は人生を生き抜くスキルを与えるが、後者は自分自身の中から生命の輝きを叩きだす力を与える。(中略)我々は社会の役に立つ一員でいるだけでは不十分なのだ。我々が自由な人々、自己創造の(自分たちを創造する)人々であれば、これはもっと完璧に行うことができる。シュティルナーは、社会の中で自分の居場所を見つけて役立つ人になるためのスキルを与えるだけではダメなのだと言った。まず自分自身の生をスパークさせる(大杉栄風に言えば「生の拡充」)力を子どもに与えなければならないと信じるからだ。自分自身の中から生命の輝きを叩きだせる人が増えれば、社会の調和などはいとも簡単に実現できるという主張は、エマ・ゴールドマンの「個人は心臓、社会は肺」の思想にも繋がる。まず心臓(人間)を生かせ。肺(社会)は心臓(人間)を生き生きと鼓動させるための成分を分配する場所だ、ということだ。ならば教育は、肺のために心臓があるのではなく、心臓のために肺があるという基本原理をまず教えるべきだとシュティルナーも考えていた。これは、平たく言ってしまえば、人の集まり(国家、社会、組織、企業、学校など)は個人を生かすための場所でなくてはならず、個人が人の集まりのために生きる世の中になるとそこには調和がなくなり、様々な歪みが生じてまともに機能しなくなるということだ。構成員を従属的な奴隷ばかりにしようとする組織や社会からは、創造性がなくなってどんどん衰退するのも同じことである。だから教育は労働するだけの奴隷を作り出してはいけないのだ。「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。どのような規模であれ、その構成員たちのために機能しなくなった組織を、下側から自由に人々が問い、自由に取り壊して、作り変えることができるマインドセットが「アナーキー」なのである。そう思えば機能しなくなった場所、楽しさも元気もない組織、衰退している国などにこそ「アナーキー」のマインドセットは求められている。そしてそのマインドセットをもって人々が緑色のブランケットの周りに集まって話し合い、「いまとは違う状況」を考案するときに必要不可欠なスキルこそ、「エンパシー」という想像力に他ならないのである。
現代では市場や資本主義のシステムが何よりも強力な「亡霊」となって人間を支配している。 アナキズムは人間をシステムや市場の上に置く。それらの奴隷のポジションに人間を貶める経済など、どれだけ繁栄しようと本末転倒なのである。
本の説明
「わたしがわたし自身を生きる」ために――
エンパシー(=意見の異なる相手を理解する知的能力)
×アナキズムが融合した新しい思想的地平がここに。
感想
自分を手離さない、アナーキー(あらゆる支配への拒否)、個人と自由を重んじる教育。エンパス、HSC・HSP、繊細で敏感な子どもたちこそ、この本に書かれているようなマインドセットを人格形成をする小さい頃から、頭の片隅に入れておくだけでも違うのかなと思いました。