「天才」は学校で育たない 汐見 稔幸

子育て,教育,汐見 稔幸

「生命の輝き」をその子らしく実現していくことが、その子のもっとも大事なミッションであり、義務だと言えます。でも人間の子どもは、自分だけで自分の生命を輝かせることはできません。それを温かく優しく応援するたくさんの大人と社会が必要です。生命を輝かせるためにもっとも有効なのは、何か。それは、「生きるとはこんなに面白いことか」と感じられるような体験を、いろいろすることに尽きます。

子どもを愛することは、こちらの好みの子どもの行為・態度を愛することではなく、ありのままの、その子の表現を愛すること、そこに善さを見出そうとする大人の側のまなざし=エネルギーを注ぐことなのです。

近代の学校は、子どもたちや保護者が希望する教育や学校を選ぶのではなく、学校教育という制度が先にあって、そこに通わせる仕組みです。ここには子ども本人の強い意志は当然ありません。まして、憧れの師が待っているわけでもない。なのに、親も子どもも「当たり前」のこととして、毎日、学校に通っているわけです。これは人類の歴史で言えば、特殊な教育形態なのです。
戦後、心ある学者たちは、教育(学校教育)は「義務」でなく、子どもの教育を受ける「権利」、学習する権利を保障する場だと、論理を転換させる努力をしてきました。この議論をさらに進めると、学校として税金で運営される場が一種類しかないということは、多様な要求、願いを持つ子どもの教育を受ける権利をむしろ阻害するものになるという論理が生まれて当然なのですが、実際にはなかなかそうした議論が進みません。

個人の幸せ、コミュニティの幸せ
もうひとつは、人間はひとりで生きている動物ではなく、必ず群れをなして生きているということ。群れの質が高ければ、属する人間は幸せになるが、群れの質が低いと絶えず争いが起こり、人間は逆に不幸せになる。その群れのことをヨーロッパ人は「コミュニティ」と呼んで、質を高めようとしてきました。子どもを育てるお母さんはひとりで子育てをするのではなく、同じように子どもを抱えているお母さん同士がいつも集まって、ぺちゃくちゃしゃべりながら子育てをしてきたということもわかっています。つまり、できるだけ構成員が平等に幸せになっていけるようなコミュニティはどうやって作れるのか集団を作ってしまうとそういう問題が絶えず発生します。こうしたことは誰かがやってくれるわけではなく、そのコミュニティのメンバーが自分たちで考え、アイデアを出し、場合によっては決めたことを各々が担っていかなければできることではありません。こういうことができる自覚と能力を持った人間をヨーロッパでは長く「市民」と言ってきたのです。

教育はパブリック
歴史的にみると、結局どこの国も近代国家をつくろうとしたときに、公民、いわゆる国民をどう育てていくかという課題にぶつかりました。そこで学校をつくらねばならなくなったのですが、そこに矛盾がありました。それは、労働者たちに読み書きを教えたら、自分たちが搾取されていることに気がつくのではないかということです。そこで、労働は神から与えられた大事な使命であるという道徳教育をセットで行うことで解消されるのではないかという議論が起こり、その方向に実際の教育は進みました。

横並び=平等ではない
日本は一律に同じことをすべきという村共同体的な意識が残っていて、それを「平等」と思っている人がまだいます。同じことを同じようにすることが平等なのではありません。同じことを同じようにしなければうまく動かないというような場合は別でしょうが、普段は子どもたちの心持ち、願い、やり方、ペース等はみな違うのですから、子どもたちのその思いをそれぞれに満たしてあげるということが平等なのです。人間中身はみんな違うのです。自分のしたいこと、好きなことを自分のペースでして自分を豊かにする。そういう人たちの集合体である市民社会は、社会そのものも豊かになっていきます。

大人は子どもの輝きを知らない
私はおもに幼児教育を中心とした活動を通して、子どもたち一人ひとりの「命の輝き」を実現したいと考えてきました。「輝き」というと、何か漠然としていて、単なるきれいな言葉のように受け取られてしまうかもしれません。でも、私たちは、ともすれば子どもたちが本来持っている命のたくましさ、尊厳を忘れてしまい、大人の視点で物事を考えがちです。日常的に子どもに接していないと気づかない、豊かな瞬間がたくさんあるにもかかわらず。大人たちが期待する「輝き」と子ども本来が持っている「輝き」はきれいに重ならないのではないか、不登校をはじめとする学校教育の問題を目の当たりにして、最近はそんな思いを強くしています。赤ちゃんは自分の意思で生まれてくるわけではありませんが、ただひとつ、生命をいただくという点ではどんな時代でも、どんな社会でも、平等に生まれてきます。そのいただいた命を大切に育みながら、「生命の輝き」をその子らしく実現していくことが、大げさですがその子のもっとも大事なミッションであり、義務だと言えます。でも人間の子どもは、自分だけで自分の生命を輝かせることはできません。それを温かく優しく応援するたくさんの大人と社会が必要です。生命を輝かせるためにもっとも有効なのは、何か。それは、「生きるとはこんなに面白いことか」と感じられるような体験を、いろいろすることに尽きます。

基礎授業は小4までで足りる?
学校で子どもが学ぶべき内容は学習指導要領で決められていますが、世の中で使う知識・スキルとして最低限必要なのは、だいたい小学校4年生までのものと言われています。もちろん、それでいいということではないのですが、算数などの計算で異分母のたし算以降のものは生活上使うことはふつうはないということです。当然その人の職業、生活、専門によって必要な知識はもっともっとあり、それらを学ぶことでものごとを深めていくことができるのは言うまでもありません。ただ、生きていく上で必要な知識やスキルに限定すると、私たちが日常使っているものの多くは小学校4年生程度ですむということです。ではそれ以上学校で私たちは何を身につけるのか、それは個別の知識、スキル以上のものなのです。個別の知識、スキルはある状況でのみ有効なものです。ですが、それを超える知は、ものごとの本質へとさかのぼろうとする知性と言えます。

アクティブよりもパッシブな表現を
豊かな表現が生まれるためには、その何倍ものinputやimpressが必要だということです。人間は外の世界とかかわって生きているわけで、外から入ってくるものがじゅうぶんに豊かにあり、さらに自分の内側で発酵させるだけのゆとりがあってはじめて、expressになっていくのです。忙しく働く現代人は、ひとつのものをじっくり味わったり、こだわったりすることがだんだんできなくなってきています。子どもたちも同様です。しかし、impressは、ひとつのものをリラックスしながら時間をかけて受け止めてこそ湧いてくるものです。

「分けない思想」=多様化思想の一歩として
不登校の子どもや、発達障害と言われている子どもを、カテゴリーで平均的人間と「分け」、そこに別の教育を提供するという思想は、ある面では有効でしょうが、本当の意味での教育にはならないということを、そろそろ私たちは常識にしなければならない時代を迎えているのではないでしょうか。分けることもときには必要です。でも分けることでは本当にはわからない、本物の教育にはならないということも同時に自覚して教育を構想しなければなりません。そうでないと、正しいことをしているつもりが、死骸を観察して生体のことがわかったつもりになるのと似た間違いを犯しかねないのです。人間を、社会が必要としている行動能力のあるなしで分けない。だれもが、親からもらったその子だけの遺伝子を持って、その子でしかできない行動をしているにすぎない。その点では、だれもが同じで、だれもが平等なのです。教育は、その子の持っているその子だけの資質や潜在力、その子がなりたいと思っていることなどを感じ取り、その実現を応援する営みにすぎないのです。その応答的な応援を通じて、教育する側もまた、この子たちと同じ人間であるということを深く実感し、同時期に生きていることを喜ぶ。それが教育者のつとめでしょう。

教育と表現とは異なる
大人は接面としての子ども表現から子どもの内面を読み取ろうとします。それを「子ども理解」と言っているのですが、そのとき子どもの厳しい表情やときに悪態などを、ネガティブなものとしてとらえるのでなく、そうした形で出さざるをえないその子の善くなろうとする意志の裏面と読み取ることが大切です。子どもはそうしていつも「善く」とらえてもらうことで、内面の「善さ志向」を活性化します。善くなろうという気持をめばえさせるのです。子どもの内面には、善ややさしさ、共感へ向かおうとする原想いと、悪意や憎悪に向かおうとする原想いが未分化な形で出口を探しています。未分化のまま出てくる内面のエネルギーが外在化するとき、素朴な「表現」が生まれるのですが、そのとき大人がその表現を「善く」見ようとすることで善さのほうが外に出る水路を広げられ、その子の「表現」自体が「善さ」に色づけられるという構造があります。こうして子どもは、善く見られることで善くなるという向善性を生きているのです。私たちは子どもたちの一挙手一投足をそのまま彼らの素朴な表現、かけがえのない表現ととらえ、それを善く見ようとすることで子どもを善の方向に導こうとします。これを私は「表現への愛」と呼びたいと思います。子どもを愛することは、こちらの好みの子どもの行為・態度を愛することではなく、ありのままの、その子の表現を愛すること、そこに善さを見出そうとする大人の側のまなざし=エネルギーを注ぐことなのです。単純な観照などないのです。

「天才」は学校で育たない 汐見稔幸

著者略歴

汐見 稔幸。1947年大阪府生まれ。東京大学教育学部卒、同大学院博士課程修了。現在、白梅学園大学学長、東京大学名誉教授。専門は教育学、教育人間学、育児学。

内容

「平均的な底上げ」を得意とし、「年相応の学び」を提供してきた日本の学校教育。学歴社会が終焉し、人生の目的や価値観が多様化するなか、旧来の教育システムに柔軟かつ個性のある人材は育てられるのか。知性の深まり、「私と世界との関係」など、原点に立ち返り「学び」を論じる一冊。

感想

近代教育の成り立ちから、不登校、発達障害まで、幅広く触れられている一冊!日常的に子どもと接することの大切さや、どんな子も「善く」見ようとすることで、「善さ」に色付けられる。世の中で使うスキルは小4までで足りる?などなど、こういった主張、視点で語る人は中々いないので、おすすめの一冊です♪