子育て指南書 ウンコのおじさんウンコのおじさん 宮台 真司
教育とは、理不尽や不条理にも拘わらず前に進む「動機づけ」と、それを支える「畏怖する力」を育むものだとされてきた。畏怖とは、人知を超えたものへの恐れと憧れだ。社会は、計算可能性という意味での合理性だけでは回らない。

引用
母親にコントロールされた娘が伝承する抑圧
子育て指南書 ウンコのおじさんウンコのおじさん 宮台 真司
母親と娘がたがいに依存する様子を表した「一卵性母娘」という言葉がつくられたのは、20年前。一見すると、仲が良いので問題がないように思えます。でも、多くの場合、コントロールする親とそれを受け入れる娘という間柄でしかありません。そうした関係の「後遺症」はあとあとまで続くことになります。かつての娘が、妻や母親となったいま、彼女がわが子を相手にしていることは、多くの場合、自分がされたことの反復です。コントロールされてきた娘が、母親となって、自分の娘をコントロールする。こうして家族の病理が受け継がれていきます。いわば「病理の伝承」です。
親への適応が生み出す〈妄想の玉突き〉
コントロールする母親のもとで育った男も「一卵性母娘」と同じく、抑圧されてきたために、抑圧し返そうという構えを引き継ぎがちです。コントロールするのが父親である場合も同じです。残念ながら、父親はコントロールしたがるけれど母親はコントロールしたがらない、というケースは、珍しいです。夫によるコントロールに適応してきた妻は、当たり前のように子どもをコントロールしたがります。こうしたコントロール連鎖の起点に、歪んだ〈妄想〉があります。父の偏った〈妄想〉に適応するために、母も偏った〈妄想〉を抱くようになり、母親の偏った〈妄想〉に適応するために、子どもも偏った〈妄想〉を抱くようになります。
ゴールなき思春期・・・・・・承認めあての右往左往
古い社会は、変化の少ない単純な社会です。だから、通過儀礼によって、自分が何者なのかを共同的にみんなと同じように体得できました。いまは変化の激しい複雑な社会。他者のゴールは、自分のゴールではない。いきおい、ゴールのないまま自分探しが続き、終わりのない不安が続きます。だから大人になっても承認を欲しがります。親や家族からの承認では足りない。社会のなかで自分のポジションを保つために他人の評価を気にして右往左往します。
プライドと自信の乖離
親が抱え込むと、親による承認が与えてくれるプライドの高さと、社会のなかで何者であったこともないという自信のなさが、乖離します。すると、子どもは自己防衛的になります。「家族がどうあれ、社会がどうあれ、僕は僕だ」「まわりがどうあれ、自分は自分だ」みたいになれません。「自分は自分」になるためには「絆で結ばれた、変わらない仲間」が必要です。昨今は「絆のない、変わりやすい疑似仲間」だらけ。だから永久に右往左往します。疑似仲間のなかでポジションを保つために、キャラを演じたり、本当に思っていることを押し殺したり。だから承認はいつも「上っ面」です。親の承認が欲しくて自分を抑圧する(=親にコントロールされる)のと同じで、疑似仲間の承認が欲しくて自分を押し殺す(=場にコントロールされる)。押し殺すのはつらい。ならば、押し殺すべき「本当の自分」を持たないほうが得だ。そこからも「愛や正しさよりも、損得」の右往左往が生まれます。
「まとも」であること尹雄大(ライター)
アマゾンの奥地に住む少数部族「ピダハン」は、3歳で成人するという。3歳になったからといって、狩猟や採集を一人前にできるわけではない。では、何をもって成人したというのか。彼らの子育ての特徴は、子どもの行いに対して「こうしなさい」と強いないことだ。少々危険なことでも親は阻止しない。そこから推測されるのは、おそらくピダハンは3歳までに自己実現を果たすことだ。つまり、生まれ落ちて3年のうちにあらゆる主体的な行動に対し咎められることなく、自己満足を得て、肯定感を味わい尽くす。そのあとの人生については、他人に承認を求めることを主要なテーマとしない。この社会が常識とする人生観は、ピダハンのそれとは違う。20歳になるまで自己満足を得て自己実現を果たすことを、教育という名の下に阻むのを当然としている。そうなると幼い時代はなかなか過酷な体験となる。私らしくあることよりも社会に適応することを念頭にサバイブしないといけないのだから。これは虐待をしているような家庭での出来事ではない。「まとも」とされる家族でごく普通に起きている現実だ。成人してはじめて、いままで叶えられなかった肯定感を得るための自己実現を果たそうとする。文明社会の自立は、いつか達成されるべき努力目標であって、決して実現されないものとなる。いったい「まとも」であるとはどういうことなのか。
ウンコのおじさんから開かれる道
デューイの教育論より遙かに古く、2500年前の初期ギリシャ以来、教育とは、理不尽や不条理にも拘わらず前に進む「動機づけ」と、それを支える「畏怖する力」を育むものだとされてきた。畏怖とは、人知を超えたものへの恐れと憧れだ。社会は、計算可能性という意味での合理性だけでは回らない。「民のために命を賭ける過剰さ」がないと真の政治はありえない。「恋人のために命をかける過剰さ」がないと真の恋愛もありえない。
1980年代半ばから「畏怖する力による動機づけ」を身に帯びる機会が急に奪われた。かくて過去20年間、政治と恋愛を「コストパフォーマンスが悪い」として忌避する若者が多数派になった。いまの社会は「正しさ(真理や正義)」への動機づけが枯渇し、専ら「得」のために知識が使われる。失敗はそこだ。「もっと効率的に専門的な知識を」という要求はあまりに愚昧で、気を失いそうになる。そうした「動機づけ」は知識の伝達では調達できない。体験による「学び」で成長する他ないのだ。そして、かつては人為的に設計しなくても「体験による学び」の機会があちこちに転がっていた。いまは体験による学びを人為的に設計する他なくなった。それを担うのが「体験デザイナー」。映画監督、建築家、音楽家、キュレーター、みんな「体験デザイナー」だ。実は、親も教員もそうなのだ。だが昨今の彼らは「体験デザイナー」としては劣化しすぎた。「劣化した大人が、劣化していない子どもを育てる」必要がある。さもないと、損得だけのクズが量産され、社会がさらにクソになる。本書の元になった親業講座の目標は「劣化した大人が、劣化していない子どもを育てる」こと。できるのか。できる。あなたがウンコのおじさんになる。なれないなら他を探して委ねる。それだけ。
著者略歴
宮台 真司。社会学者。首都大学東京教授。著書に『日本の難点』(幻冬舎)、『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシ共著/KKベストセラーズ)ほか多数。
感想
ちょっと図書館で借りるには恥ずかしいタイトル!笑。宮台真司さんの子育て本。難解な本も多い、著者の作品の中でも、ボリュームも少なめで、よくまとまっていて、サクッと読めます。教育の定義、すごくいいなーと思いました!宮台さんが、不登校について語っている動画も載せておきます!